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↑完熟梅ジャム作りました。杜仲茶の葉も。&ヒグラシ初鳴き。

★完熟梅ジャム作りました。&ヒグラシ初鳴き!

いよいよヒグラシの時代だ。
              2017年7月9〜5日 記
 今日は今年初めてのヒグラシを聴きました!
すごい日差しだったので布団類を干して、竹を日光に当てて(楽器を作り中)、ひさしぶりに近くの自然公園に行ったのです。
 6月中は、実家の方で草刈り・剪定・梅もぎなどやって、持って帰った梅の実や杜仲の葉でいろいろなものを作っていました。中でも完熟梅ジャムは驚きのおいしさに出来上がり、甘じゅっぱ〜くて超おいぴぃ〜!杜仲茶も作りました。これら写真や映像を逐一撮りましたので、別の機会にじっくりお伝えします。

 というわけで今日はひさしぶりに自然の中でギターを弾くという「私のニュートラル状態」をやるというわけです。時々これをやっておかないと私の芸術のアイデンティティが損なわれるような気がするのです。
 つまり私の音楽はアメリカで展開したジャズの即興や新しいハーモニー、そのもととなったヨーロッパで発達したクラシック音楽、ジャズ的ハーモニーを転回型で連結して独自のリズムと融合したブラジル音楽、ファンクやR&Bのグルーヴ、ロックの情念やアンチテーゼ、ギターミュージックのソノリティー、そして映画音楽、これらが渾然一体となっているのですが、そうした人間が積み上げて来た文化としての歴史,理論,技巧とは違うチャンネルで、自然から直接得るインスピレーションを重視するというのが私の表現の特徴なのです。マインドフルネス系というか、本来のニューエイジ系というか、知識を介さない理解系というか・・。
 と申しますのは、科学や工業製品の発達に寄っていわゆる先進国の生活は便利にはなったものの、いろいろなものがブラックボックス化して、知らず知らずのうちに常習化することで、人間がもともと備えていた技術や感性が衰えていっていることに対しての危機感があるからです。
 ほとんどの「便利もの」は、実は水質汚染、土壌汚染、PM2.5被害、ヒートアイランド現象、化石燃料等の安易な消費といった「功罪」をともなっているのです。大企業やマスコミと政府の癒着などから、隠蔽されているものが多いけれど、ほんのわずかな利便性を優先することで、裕福でない人たちや、社会的影響力の低い人たちに健康被害や経済的な圧迫というしわ寄せが及んだり、伝統的な技術を持っている人たちがないがしろにされたりすることも多い。水俣病しかり、発がん性物質の体内残留しかり、放射能汚染しかり。

 せめて本来はどういうものだったか、どうやっていたのか思い出したい。冷蔵・冷凍出来ない時代にどうやって食べ物を保存・運搬していたか?(今回も梅酒作り用に焼酎やホワイトリカー等のアルコール類を使いましたが、人類はどうやってこのお酒類を生み出したのか?ジャム等砂糖付けにする意味は?・後述)
 できればたんなるうわべの情報だけでなく少しでも自分でやってみたい・・こう思うわけですが、ライフワークでもある音楽表現においてもこの点に矛盾が あったらおかしい、というわけで、商業的に主流な曲調や、宗教儀礼として発達した手法から離れて、自然から得る直接のインスピレーションだけで即興したり 作曲したりするというのをやるわけです。フリッチョフ・カプラーが言うところのコズミック・ダンスを感じて、あわせられる音楽を作りたいというわけです。
 その時に注意しなければいけないのは、テレビや映画や深夜枠の番組等で風景にあわせてつけているBGMを想起してしまってはいけないということ。普段そ ういうのを試聴して、無意識のうちに定番的なセットがイメージに刷り込まれている場合があるのです。例えばスポーツ番組のダイジェスト解説でバックに流れ るハードロック、フィギュアスケート番組の宣伝で流れるオペラのアリア、といったもので、しかも制作会社では誰かがすでにやったことに影響されるか真似る かして、複製の複製のようになって「安易な定石化」して、一般人が「そういうもんだ」と刷り込まれている場合があります。
 そうではなく、純粋に今見えている山の木々、聞こえている鳥の鳴き声、肌で感じる空気の流れ、匂い、木々のざわめき、体感温度、これらを感じ取り、呼応 した音程やリズムをみつける、この空間に違和感の無い音を出す、ということです。なかなか難しいものです。私にとってたんなるリフレッシュという以上のも のなのです。


 ところでこの都立公園は敷地が広く、あまり人工的に管理しすぎないポリシーで、かつ、草木や虫を採取して持ち帰ってはいけない、という場所です。山の尾根にトレッキングできたり、谷津田(山から下りて来る沢に沿って作る田んぼ)や、池の生き物を見たり、カエルがたくさん鳴いたり、芝生の広場やアスレチックがあったり、春には桜が咲いて、涼しい木造の東屋(あずまや)があったりで、私は作曲したり、体力トレーニング、瞑想に語学の勉強から原稿書きなどいろいろに利用させてもらってます。そこへ久しぶりに来ました。
 今日は草のいろんな匂いがして、気持ちのよい柔らかな風が吹いて、うぐいすなどの鳥が鳴いて、夕方で人はいなくて開放感満点でした。Lawdenのガットギターを持って行き、ベンチで心のおもむくままに弾きました。
 まずはそれとなく技術の練習からはじめます。短音階の種類を和声や音の方向によって弾き分ける練習(上行はメロディックマイナー、下行はハーモニックマイナー等)のスピードアップ、これに開放弦を織り交ぜたソノリティーにする方法、「バッハの4音」に通奏低音をつけて和声進行を表す方法、「シャドウノート」(任意の音列に5度平行を裏に弾く、これを4度や6度などに変え、テヌートして擬似的な2声としたりペダルにしたりコントラリーで対位法的にする)これに第3の音やドローンを加える、などなど・・。
いったん中断していた研究と、それに必要な技術の練習など。
それから和声のつなぎで転回型など発見があればいろんな調やセカンダリー・ドミナントに置き換えたりします。今日はあらかじめコピーしておいたサン・サーンスのコードつきピアノ譜から、転回型とディミニッシュをつなぐ独自の和声を学べました。
「自然に感応」はこれらをひととおりやってからのことが多いです。


 しばらくしてヒグラシが鳴き始めました。はじめ、まだ荒削りだな、という音色だった。
やはり多くはH(Shi)とC(Do)の中間ぐらいの音程です。時折りだいぶ高めや低めに鳴くやつがいます。聴く側としてはその方が面白いのですが、これは数日で音程がそろってきます。チューニングされるのですね。個体差が少なくなって来る。以前から研究結果として書いてきましたが、それによっておそらく音を強め、天敵の鳥に縄張りを主張して遠ざけるのだと思っています(仮説)。
 このヒグラシ音をペダルノート(保続音)としてコードをつなげて行くと美しい。テンションノートにあてたり、ノンダイアトニックコードに乗り移ったり。でも、これは、前述のコンセプトからいくと、中間のアプローチ。つまり、すでに人間が音階や和声法を確立し、近代以降さまざまな借用和音や無調に近い転調法がうみだされて、その保続音をヒグラシの鳴き声に設定しただけだから。
例えばショパンの前奏曲 作品28“雨だれ”や、A.C.ジョビンの“One Note Samba” "How Insensitive" 、他にはパット・メセニーがジョニ・ミッチェルのライヴ「Shadows and Lights」でのソロ・コーナーで盟友ライル・メイズの延ばす一音に対してモチーフをさまざまな調の音階に次々変化させた演奏があります。
 次の段階で、たんに保続音としてではなく、2重構造として、今鳴らす音のむこうに置いて心理的遠近法のように使うことが出来ます。エンニオ・モリコーネがやる手法で、SEと楽曲内の境目ぎりぎりという感じ。この場合楽曲の調律とあっていなくても可能になります。
 さらに次の段階として、自然倍音列に当てはめることができると思います。これは、ある弦や気柱の長さから得られる基音に対してオクターヴや5度、3度と同時に振動している音で、ホルン等の金管楽器類ではこの倍音の方を旋律として吹くわけです。自然の状態だと第11倍音ではFaが高めになり、第13倍音ではLaが下がり気味になりますから朝顔部分に差し込んだ手やアンブシュア(口の吹き方の調整)で微妙な音程を調節します。

 モンゴルの「ホーミー唱法(ホウメイ)」では、持続した低い声に対して同時に出て来る倍音で口笛のような高い音で旋律を奏でる時に使われ、西洋音楽の長調や短調の音階ではない音列が出ます。
 楽器ではブルガリアの倍音フルートKavalカバル)やスロバキヤの一見旧型ファゴットのようなFujiara(フヤラ)はこの倍音列を使って神秘的な演奏が行われます。現在の均等に調整された「平均律」ではなく、自然の法則から生まれる音程です。
 こういう音列での現代的な演奏は、ヤン・ガルバレク(ソロアルバムやライブで)、ポール・ウィンター・コンソートとの共演で知られる「Trio Globo」のグレン・ベレスのヴォイスwithパーカッション、ECMレーベルのステファン・ミカス、また、アンビエントを重視し、自然回帰を彷彿とさせるナナ・バスコンセロス(残念ながら亡くなってしまった)等、世界的に少数のミュージシャンで聴けます。また、平均律の一般的な楽器とのアンサンブルは非常に難しいのでさらにわずかの芸術家しかトライしていない分野と思います。
 そこで私は、平均律でいう音階からは外れた音程のほうにヒグラシ音を置いて逆算した基音を求め、残りの倍音列で旋律等を奏でたらどうかと発想していますが、まだまだ研究段階です。
さらに2音間や倍音間に発生する「差音」「加音」の効果が自然界ではどうなっているのかも調べて組み込む必要があるように思いますが長くなるのでまた別の機会に。

 

 というわけで、自然いっぱいの場所で鳥や虫や風の音に耳を傾け、深呼吸して、空気の匂いを嗅いで、半ば自動的に弾いているといくつか2弦開放と別の弦との響きでモチーフが感じられたので、音が残響で被るように音階を弾くと、ちょっと古いリュート的なソノリティが現れました。
そこに少しずつ音を増やしてカンパネラ的アルペジオを思いついたり。極力安易なダイアトニックにならないようにしますが、逆にドローン(開放弦による保続音)で「聴いたことのあるエスニックな表現」にも偏らないように気をつけます。
 まあ「禅」の世界で、心を無にしようと意識しすぎると「心を無にしよう」という意識が生まれてしまう、というのと似ています。商業的で低俗なものに影響を受けていない音楽にしようとすると、媒体が発達する前の伝承曲や民族楽器の奏法に頼ろうとしてしまう。しかしギターで奏でる以上、この楽器が構成されて来た文化背景の拘束は受ける。
 するとやはり前述のナナ・バスコンセロスとのデュオ活動でも知られるエグベルト・ギスモンティがトライした手法がよぎります。独自の10弦ギターを作って演奏することでドローン的手法、複弦によるソノリティ、ハーモニクス奏法、少しヴォイスを混ぜたり、極端なルバート、等を重層的な効果を生み、幽玄な世界を描き出す。しかしその劣化版のようになってもいけないし。
 そこで、意外と現代ジャズ向けに積み上げて来た音列やリズムモチーフがフィットすることに気づきました。2度や4度の複音、裏アクセントを使いながらスィングしすぎないよう抽象化した旋律断片、これの遠隔調のものとの切り替え。そういえばキース・ジャレットは平均律のピアノを使いながらも即興演奏で禅の世界に近い世界観をだしますが、こうした哲学系ジャズの手法は使えるようです。
 ひょっとすると鳥の鳴き声を楽譜に書き出して作曲したオリヴィエ・メシアンを研究すべきなのかもしれない。トータル・セリエリズム(総音列技法)の現代作曲家でありながら、共感覚の持ち主でもあり、リズム研究家(リズミシャン)でもあり教育者でもあったメシアンの独自の音階語法は平均律と自然倍音列との融合の鍵になるかもしれない。来日時、軽井沢等で朝早くから鳥の鳴き声を聴きながら次々に楽譜に書き取っていったといいます。

 バルトークが民謡を採集するのにハンガリー中を旅したのと似ていますね。そこには教会系クラシックからはかけ離れた、変拍子や旋法があったのです。
 と、少し糸口は見つけたものの、そのまま1曲できて記録するというところまでは行きませんでしたが、精神衛生的にひといきつけました。
 

 この日はなぜか「カ」が全く出なくて集中して研究と練習ができました。(このところ雨が少なかったからかな?)

 というわけで、そうしたことがらから、ちょっとハーブに興味を持ったので、トライ中です。近くの大きな園芸店でレモンバーベナ、スペアミント、ステビア、ワイルドチェリーや嫌虫草など買ってきました。
梅酒は焼酎で漬けたものと、ブランデーで漬けたものと2種類作ったのですが、テレビでレモンバーベナを加えておくと香りが良いというのをやっていたのもあって入れてみようと思いました。葉っぱを指で軽くつまむととってもいい匂いがします。  また、夏の活動で虫除けにレモンユーカリなどを使えないか考え中です。  

 オーキー・ドーキー、大きい動機、今回はこの辺で、次回は梅で使ったものやハーブ関係等。Auf  Wiedersehen !

   2017年7月9〜15日  記